第6話 高級デジカメより、もっと凄い

 カメラという言葉には、どこか贅沢な響きがありました。ズッシリと手応えのある一眼レフを構えて、シャッタースピードや絞りを露出計の目盛りに合わせて、ピントぴったりでシャッターを切る。ちょっとした儀式のようでもあり、すごいメカを操っているようで得意満面でした。

 しかし、最近は一眼レフでも軽量小型で、機能の割には手ごろな価格のものが出回るようになり、気軽に写真が撮れるようになりました。露出が自動なのは当たり前、オートフォーカス、オートストロボ、ものによっては手ブレ補正機能まで付いています。デジタルカメラでは、撮影した後でもコンピュータに接続して色補正や細工までもが出来てしまいます。

 でも、この先どんなにカメラが進歩しても、絶対に超えられないと思う高級カメラ(?)があります。それがヒトの眼なのですね。脳というコンピュータに支援されているとは言え、眼を超えるカメラは当分できそうにありません。

 では、どんなところがそんなにすごいのでしょう?
  レンズの膨らみかたがコンパスで書いた円のようだと、レンズの厚みの違いのため、中央部を通る光と周辺部から来る光の焦点にズレが生じ、像がボケてしまいます。このため、カメラや高級な眼鏡のレンズは中央部と周辺部の度数を微妙に変えて、このズレを補正しています(非球面レンズ)が、ヒトの眼は最初からそうなっています。
  ヒトの眼もオートフォーカスは当然ですが、カメラよりスピーディです。ただ、40歳を過ぎるといわゆる老眼で、ピントを合わせられる範囲が狭くなり、スピードも落ちるのが残念です。ヒトは元々、寿命45年で設計されていますから、文句を言えませんが。
 カメラでも露出は自動のもが多いですが、眼はカメラ同様、絞り(虹彩)で光の量を調節すると共に、フィルム(網膜)の感度も感度も変えています。瞳孔の大きさは瞬時に変わりますが、網膜の感度の変化は少し時間が掛かります。

 また、網膜の感度が落ちないように工夫もしています。生き物の身体はどこもそうですが、同じ刺激が続くと慣れてしまって感じなくなってしまいます。網膜も同じで、動かないものをジーッと見つめていると見えなくなってしまうので、時々眼は小刻みに動いて網膜の刺激を更新しています。壁の一点を見続けていると、壁の模様がチラチラするのはそのためです。

 色の補正も自動的に行います。ピンクのサングラスを掛けると、しばらく何もかもがピンクがかって変ですが、しばらくすると気にならなくなり、いつもと同じに感じてしまいます。記憶にある物の色から色補正を行っているからです。「色眼鏡で見る」という喩えがありますが、これは医学的にも正しく、色眼鏡をかけている人は、自分が偏った見方をしていることに気付かないのです。










 手ブレ補正機能付きのカメラやビデオカメラが出ていますが、ヒトの眼は手ブレどころか、頭の動き、身体の動きなどの補正を行い、物がぶれてよく見えないなんてことは余程ことがない限りありません。さらに、重力の方向による補正もありますので、どんなに頭が傾いて眼の位置が変わっても、外界が傾いたとは思わず、眼の位置が変わったためと理解できます。

 また、興味あるもの、気になる物を自動的に追うことが出来ます。意識しなくとも可能で、まさにハイテク兵器並みですね。
 飛んでいる鳥や飛行機をカメラで撮ると、大きく撮ったつもりが出来上がった写真では小さくしか写っていなくて、がっかりすることがあります。これはヒトの眼が見たい物を自動的にズームアップしているからです。

 ズームに少し関連しますが、ヒトの眼は探しているもの・好みのものだけを、一瞬にしてピックアップできます。例えば、多く人が行き交う雑踏で、好みのタイプの異性を難なく見つけられますね(声をかける、かけないは別として)。
 逆に、見たくないものは、眼に入っても見えていません。何かに集中していると、「周りが見えていない」、「視野が狭くなる」、「恋は盲目」などの言い回しには比喩的な意味合いもありますが、実際にも見えていないと言えます。これには弊害もありますが、今手がけていることに神経を集中させて、やり遂げるという面からは良いことなのだと思います。

 また、心の浮き沈みによって、同じものが違って見えてくるのもカメラとは大きく異なるところです。同じ雨でも、良いことがあった時であれば、洗い流された緑が目に映えるウキウキした雨になりますし、心配事や悲しいことがあれば、どんより重い雨、心まで寒くなる冷たい雨になります。






 「トトロ」や「千と千尋」などのアニメに携わっておられる宮崎 駿 監督が、作画するスタッフの方に「写真を見て描くな!」とうるさく言われたそうです。これは、写真を見て描いたアニメには臨場感がないというのです。観客が自分もその場にいるような真に迫った絵というのは、実際に自分の目で見て描かないとダメなのだそうです。
 まさしくヒトの眼とカメラとの違いを、よく言い表した話と思います。

 人は、胸のときめきや感動というフィルターを透して、いろいろなものを見ます。それを文字通り脳裏に焼き付け(視覚に関する中枢は、脳の最も後の部分なので)、一枚一枚大切に人生というアルバムに収めていくのでしょう。ヒトの眼は、必ずしも機能的に他の追従を許さないと言うわけではありませんが、ある意味では凄い高級カメラなのです。

 ヒトの眼は、その動きも極めて巧妙に出来ています。それについても、またの機会にお話ししましょう。

 *追加のお話:さて、以上のようなヒトの眼の優秀さのお話をしてきましたが、決して写真が劣るという話ではありません。カメラはカメラならではの方法で芸術性の高い作品を創れます。また、思いこみや勘違い、色眼鏡を透さないありのままの記録としては写真に勝るものはありません。さらに、ある出来事の瞬間を切り取り、その感動や緊迫感を一瞬のうちに全世界へも配信出来るというのも写真ならではです。
 今はちょっと休業気味ですが、私もカメラを趣味にしております。カメラ愛好家のみなさんもご立腹なさらいようお願い致します。